フットワークの軽さと教育
教育って難しいのです
ほとんどの人がそこを生活してきているので
専門家ではなくても
そこそこのことは
そこそこそれらしいことは
誰でも言えるのです。
個々の科目は何のために教えられているのか
個々の科目を何のために教えているのか
教科教育以外の学校の活動とは何のためなのか
何が善とされるのか
いっぱしのことは大概のことが言えるのです。
何が正解かはわかりません
どこかにわかる人がいるのかもしれませんが
少なくとも僕の周りにはいません
もしいたら教えてくれているはずです
僕は教育とは
人生のフットワークを軽くするため
と思っています
コンピュータほど人間はデータのインストールが容易ではないのですが
学校を通して様々なデータをインストールし
人生における可能性について考え、行動するときのフットワークを軽くしていきます
学校で個々の科目教育、部活動、学校行事という範囲において様々なデータを生徒はインストールしていきます
生徒は学校以外の活動を通じ、また違ったデータをインストールします
選択肢を多く持つことで
あ、医者より野球選手のほうが楽しそう、そっちを目指そう、とか
野球選手より登山家のほうがワクワクする、そっちにいこう、とかもできるはずです
人の命を救う=医者、という発想から
人の命を救う=手軽で安価に栄養が補給できる食品を作って世界に広めたい、と研究に進む人もいるかもしれません
その素地というかMAPというかアイディアの提供を大人ができるか
突飛と思えることを言われた時に、背中を押せるか
それが大人の役目だと思います
…と思うのですが、
教育を通してオトナの道筋に乗せ、
モブキャラのような面白くない人間らしき何かを量産しているのではないか
そういうオトナを作る教育に抵抗している人が散発的にしか存在していないのが日本の弱点かなと思います