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英語を学ぶ、学んだら還元する、楽しい毎日。

落合陽一的な世界を迎えるための教育⑤

これからの時代の教育というのはどういう形になるのでしょう。
これからも先生と呼ばれる人が前に立ち、生徒たちは前を向いてただひとつの情報を受け取っているのでしょうか。
画一的な集団の形成ということに対する価値はこれまでより低くなりました。
これからはよりその価値が低くなっていくことでしょう。
生徒一人ひとりの嗜好や価値観、また目指すべきものが多様化していくと今のような形態というものに価値は見出せなくなってきます。
ここの価値観に対応した授業というのが必要になってくると思います。
またある知識を積み上げていき、最終的にその技能が花開く、といった「基礎から応用へ」という一方通行の矢印が立つ授業というのは少なくなってくるのではないかと思います。
単語を覚え、熟語を覚え、構文を覚え、文法を学ぶ。
そうしないと英語を読み聞き話し書き、ということはできないのでしょうか。
技能が身につかないと応用ができないというのは本当でしょうか。
それは画一的な授業を行う、一方通行の授業を行う、というパラダイムでは致仕方ない授業形態だったと思います。
画一的で一方通行の授業では、基礎から応用へ、という矢印を置いておくことしかできなかったのです
事業形態では1つの答えを求めるしかできなかった、ということです。
ただ今の世界では、生徒の価値観や求めることは一層多様化してきているので、この形態が崩壊へむかってきています。
教員も生徒もこの形態がもう既に終わった、過去のものだということがわかりながら、ごまかしながら授業を行い、また授業受けているのかもしれません。
ではこれからはどうなるのでしょう。
生徒個々の必要に応じ教員がその手助けを行う。
生徒が行ったことに対し助言を行うことで、応用から基礎へ戻る、また基礎から応用へ戻っていく、という繰り返し行うということが増えてくると思います。
基礎がスタートではないのです。
生徒がやりたいと思った、生徒が知りたいと思ったことがスタート、つまり応用がスタートということです。
このような授業を支えるテクノロジーが開発されてきています。
簡単なところで言えば、iPadをはじめとする個人用のタブレットや、また、張りめぐらされた4G回線などです。
ビジネスの世界でよく聞くようになったIoTですが、これは教育を変えるものでもあるのです。
ユビキタスコンピューティングの先にある5G回線やIoTの進展というのがこれからの教育を変えていきます。
ただ今でも4G回線を利用した、個人用タブレットを利用した授業ということが可能なので、個人ベースの授業展開が5GやIoTの本格導入に先んじてこれらが展開されることが望まれます。
生徒が個人ベースで授業を進め教員はそれに対し指針を出す。
うまくコンダクターとして立ち回れるか、ということが重要になります。
また、多様性への感性を高めることも必要です。
世界が個人ベースであるが故に、自分と他人の違いや境目への感性が必要です。
個人ベースが個人至上主義に陥らないよう、気づきが与えられるかがこれからの教育に必要な仕事です。
情報とニアリーイコールになる知識はウェブ上に落ちています。
教育者は子どもに、その分野で絶対必要になる思考のフレームワークやテンプレートを実装することに注力し、それが完了したら生徒のパラメーターを暗記から思考に振る役目を果たすべきです。
今の教育は、生徒も教員もパラメーターが暗記に触れ過ぎています。
暗記は所詮コンピューターに勝つことはできません。
機械学習ディープラーニングにより計算や収集、分類などはコンピューターが活躍しそうです。

速報のような簡単な記事であれば、リオ五輪の時のようにAIが書き上げてしまうでしょう。

人がそこで争っても仕方ないのですから、別の分野に使うパラメータを育てないといけないわけです。

必要なのは薄っぺらい"共同学習"やアクティブラーニング“型”授業ではなく、タスクベースドな授業、問題解決型学習でもないのです。

生徒に寄り添った、生徒中心の授業、という耳障りの良い抽象的な授業でもありません。

(ところで、アクティブラーニング型授業をパッシブに受ける生徒について教育に関わる人はどう思っているのでしょうか。また、問題を解決しない学習とは何なのでしょうか?)

徹底的にstudyさせ、learningさせていく必要があるのです。

応用から基礎へ、基礎から応用へ。

 

さて、いつも以上に話がぼんやりしてしまいました。

 

ここまで5回が思考や思想ベースだったので、少し具体的な授業や実装について話をしないといかんな。

活動報告 ver. 2 (2017 / 07 / 31 )

2017年 7月
チームキムタツ関東支部勉強会にて「クラスで行うmini TED Talks 成果と成長」という題で授業実践発表

2016年 12月
アルク「英語の先生応援マガジン 2016年 冬号」
教材活用事例 にて「ユメブン①について」

アルク webマガジン「GOTCHA!」
2016/12/19 「2017年は、英語日記で幸せを引き寄せる!」
にて 拙ブログを紹介いただきました

2016年 11月
大修館「英語教育」12月号
特集「いつもの授業に『話す』を組み込む」にて
拙稿「TED Talksを活用したスピーチと4技能フル回転の活動」掲載

2016年 7月
チームキムタツ関東支部勉強会にて「クラスで行う mini TED Talks」という題で授業実践発表

落合陽一的な世界を迎えるための教育④

最近の教育のワードとしてトレンドになっているアクティブラーニングなんですけど、すごく違和感。
アクティブラーニングというのは何を指すのか。
生徒がアクティブに学習を行うというとそのままなんだけど

色々な意味を含んでいて非常に曖昧なものになっている。
生徒がグループワーク"のようなもの"をして今までとは違う授業形態で授業を受けているのがアクティブラーニングだとすれば、それはどの程度意味を持つものなのか。
結局、黒板を使って知識を享受する授業も先生がアクティブラーニングを頑張っている授業も生徒がパッシブであればそこに何も変化はない。
生徒はアクティブラーニングをパッシブに受けているという非常に面白い状況になっていることも多々見受けられる。
アクティブラーニングというのは生徒の気持ちや頭がアクティブに動く、そのような授業なのではないでしょうか。
つまり、落合陽一さんが話されている"エモ"というのがキーワードになっていて、
この"エモさ"を持った状態で行っている学習がアクティブラーニングになるのではないでしょうか。
もしくはこの"エモさ"を育てる、"エモさ"の萌芽を育成するのもアクティブラーニングの1つの側面なのではないか。
アクティブラーニング型の授業は決してアクティブラーニングとイコールではないということです。
科学技術の発展により肉体は衰えるスピードが落ち、しかし一方で精神は肉体が衰えない代わりにこれまで通りのスピードで衰えてしまう。
このギャップを埋める、精神を衰えさせない、エモさを維持させる、これらがアクティブラーニングの指す、アクティブさなのではないか。

最近そう思うようになりました。

生徒のマインドをアクティブにさせる、その仕掛けを作るのが教員の役割だと思います。

Bullet Journal デジタル世界のアナログデジタルな手帳

手帳というものと相性が悪く

カレンダーページにメモを取るくらいしか中々続かない人いませんか?

僕は完全にそっちです。

 

それでもブロックタイプと言われる

1週間がバーチカルでもなく、ホリゾンタルでもないタイプの手帳がなんとなく相性が良かった

 

たぶん教員という仕事柄、1日にそんな細かくアポイントが入らないので

手帳然としたものでなくて大丈夫!ということなのかも

 

to doリストを別にするとどちらも半端になるので、困ったもんだ、という感じでした。

 

さらに言えば、使いたいデザインの手帳となかなか見つからず…

 

じゃあ作ってしまえ!

 

と思って作ったのが

かれこれ7年くらい使っていたのがルーズリーフバインダーを利用したオリジナル手帳

 

A4プリント、メモ、to do、出欠管理まで

すごい便利だった

 

便利だった!あれ絶対売れる!とも思った。

 

けど、フットワークの軽さや大きさが何点。

 

というわけで、去年から始まったのが簡易式ではあるけどBullet Journal

月間スケジュール、週間予定、日々のto do、メモ、パーソナルデータまでオリジナルレイアウトで自由に組み合わせたり足したり引いたりできるので

非常にオススメです。

 

twitterでも有名な、むやたんさんのブログを参考に思考錯誤しながら作成、使用しております

 

このBullet Journalってアナログもアナログなんだけど、非常にデジタルな感じがするんですよね

 

なにがデジタルなのか言語化はできませんが、デジタルな感じがするんです

 

そういえば、Apple PencilとiPad Proってデジタルなのにアナログな気がするんですよ

Apple PencilとiPad Proの組み合わせの逆がBullet Journal…そんなことはないか…ないか?

 

落合陽一的な世界を迎えるための教育③

落合陽一的な世界を迎えるにあたってどのような教育ができるのだろうかと考えている最近ですが、今日僕が感じたことについてつらつらと書いていこうと思います。
落合陽一さんの作品「Fairy Lights in Femtosecond」を見て感じた「空中に浮かぶ光のメモボード」=「空中に浮かぶ光の黒板」がほしい、という僕の思いはなかなかすぐには叶えられないかもしれませんが、昨今の教育の中で言われているICT教育という中にヒントがあるのではないでしょうか。
勤務校ではICT教育化の波に乗る形で教員にiPadが配布されています。
そしてアクティブラーニングやICT教育を進めようという動きができています。
ICT教育やアクティブラーニングといった新しい言葉を聞いて、今までの教育を全て変えて新しい何かを始めなければと意気込んでいる先生方もいますし、
またそれに進むことができずにオールドパラダイムの教育をかたくなに推し進めようという考えの先生方もいます。
iPadを用いてICT教育を行うということは本当に違うことを行うことなのでしょうか。
僕は未だに紙とペンのザラザラとした感触は好きですし黒板とチョークの感じも大好きです。
紙とペンや黒板とチョーク僕はこの組み合わせの延長線上がiPadであって新しい何か魔法の機械という風に感じたことはありません。
iPadを用いることによって旧来の黒板に縛られた授業から物理平面を克服した新たな場を獲得した教育というのが展開出来るのではないかとワクワクしています。
いまだに黒板とチョークを用いる授業がメインになっていますが本格運用が始まりアイディアが固まってきたらiPadを用いて物理平面を克服した、情報の量と質のレベルアップした授業が出来るのではないかというふうに考えています
まだまだ「教える」という中で物理的平面の限界が問題となる場面が多いわけです。
そこにiPadが加わるだけで物理平面というのは理論上無限大に増えていきます。
もちろんサイズやデータの受け渡しに関して問題がないわけではありませんが黒板で書いていたものをiPad上で行うというだけで僕は自由に教室内を動き回ることができるわけです。
生徒たちも手元にタブレットがあれば僕の板書を手元で確認することができます。
またそれに情報付け加えて僕に直接質問することもできますし、あなたの提案することができます。
また生徒間での意見交換やお知り合いといったこともタブレット上でいつでもできるわけです。
また生徒は教員が話している内容について疑問を覚えた時に質問することももちろんできますし、その場で検索をすることもできます。
また自分の考えに似た考えがないかすぐ検索することもできますし自分の考えの妥当性というのを確認することができます。
また情報はデータとして扱われることになるので、ものすごくコンパクトに手元においてことができます。
生徒はスマートフォンタブレットなどのデバイスがあれば、
クラウド上で同じデータを編集することができるので、
スマートフォン片手に宿題を行ったり、
スマートフォン片手に宿題を提出したり、
またスマートフォンを用いて調べ学習をしながら、グループワークをすることもできるはずです。
たった1枚のタブレットで魔法のようなことはできませんがそれに近しいことができるはずです。
この授業というのは何も新しい取り組みではありません。
今まで紙とペン黒板とチョークで行っていたことの延長線上がただ単にiPad上で行われているというただそれだけのことなのです。
ただこれだけでも授業のスピードや密度というのは高まってきますので、生徒個々の興味関心に応じた授業の展開が容易になってきます。
その中で教員は生徒それぞれにアドバイスを送り、
調整を図り、
興味関心から出た直感を学問的に正しい方向へ導くことができます。
これから先、魔法の世紀を迎えるにあたって、
今使える魔法を最大限に活かした教育、これを展開する時期が到来している。
僕自身に魔法は使えなくても魔法の世紀を迎える生徒を育てることができる
魔法を使える生徒たちを育てることができるのではないか
その可能性を感じた今日なのでした。

落合陽一的な世界を迎えるための教育②

落合陽一的なエモーショナルな人間を教育という現場でどのように育成していくかということを最近よく考えています。
またそのエモーショナルに人間をどのようにして増やしていくか、
そのエモーショナルなモチベーションどのように作っているかということをよく考えます。
どのような方法があるのかと考えていますが、均質な教育を施すというこの現代の教育空間の中でエモーショナルな人間というのはなかなか育ちにくいのではないかとも一方で思っています。
ただその中で教師という立場をよく考え直す、これにヒントにあるのではないでしょうか。
教師という言葉の英語としての訳語はteacherですがteacherという何か知識を生徒に与えるというスタンスではエモーショナルな教育というのは難しいのではないでしょうか。
最近よく思うのですがイメージとなかなか合致する言葉が見つからないのですが、 teacherという立場ではなくてconductorという立場であるというのは1つヒントになるのではないかと直感的に、また直観的に思っています。
知識を教えるというだけであれば何も教員というものは必要なくて生徒というのは自らインターネットなどを介して好きなだけ好きなことを学ぶことができます。
ただその時に生徒個々を見つめながら学びをコーディネートしていく、また生徒の個性を見極めながら指揮者のように生徒にアドバイスを送っていく、全体のバランスをとっていく、そのような役割が必要なのではないでしょうか。
考え方や求め方またその爆発のさせ方に対してアドバイスを送る立場そういうものが求められると思います。
そういった学びをサポートして彩りを添えていくそのような立場が必要なのかと思います。
そういったことを考える時今のような生徒をコントローラブルな存在だと捉えている教育というのは非常に危ういのではないかと思います。
教員のその旧来のマインドをリセットするには非常に時間がかかりますが何か手立てはないでしょうか。
こういった考え方が少しずつ理解され広まってくる世の中になればいいなと思いますが意外とこの考え方に賛同してくれる人が多くて教育の未来というのは思ったよりも明るいのかなと思います。
旧来のコントローラブルな人間を作る教育からエモーショナルな人間を育成する教育、この変化がこれから先の日本が明るくなるか否かを決めるわけです。
理系的な財産というのは非常に重要ですがこういった教育のマインドのリセットをするためには文系の力というのも非常に重要になってくると思います。
ただ旧来の文系と理系の壁というのは早急に壊す必要があって理系文系問わず哲学や歴史や、いわゆる物理や化学、そして生物の知識を持った人間、こういった全方向的に開かれた人間というのがこれから先必要な人物ではないでしょうか。
そうなると日本の教育制度は根本的に変わっていく必要があって、小学校・中学校・高校の教育をすべて見直す必要があります。
高校の3年間で理系文系という狭い枠で考えさせるような教育から生徒の興味関心を中心に幅広く知識を蓄えさせる。
これは強要ではなく、自然と身に付くような、そのような方法を模索する必要があるのではないでしょうか。
なんにしても大教室でひとつのことをただ一方的に、とする教育これは変わっていく必要があると思われます。
そして形だけのアクティブラーニングという何かファンタジックな、おままごとのようなアクティブラーニングからの脱却というのも必要だと思います。
何か教育にそういったハックが見出されることを期待しています。

また動かなければならないと思っています。

落合陽一的な世界を迎えるための教育①

なんか最近いろいろ考えてることが多くて、ただまとまりのないブログになりそうだなぁというのは思っているんですが、ブログをつらつらと書いてみたいと思います。
この職業をしていると先生と呼ばれることがもちろん多いわけですが先生というのは非常に何か偉いものではなくてただ単に生徒より先に生まれただけというふうに考えています。
生徒は先生から色々な知識を得るわけですが、 先生は自分の持っているノウハウやテクニック考え方というのを生徒に伝授するわけです。
つまり先生がそこまで進んできた道というのを僕で言えば一回りも下の生徒たちがその時点でもうすでに手に入れるということになるわけです。
生徒がその年齢で先生と同じ立場まで一気に引き上げられる。

 生徒はその年齢でそこをスタートにまたさらなる高みを目指すことができるというのは非常に良いことだと思っています。
ただし問題点があって非常に先生というものの世界というのはクローズドな世界になっていて先生同士のノウハウの伝達というのがきっと世の中よりも少ないのではないかと思っております。
先生というソースから知識を得るこのことによって生徒は能力を高める。その生徒がまたさらに下の世代に知識の伝達を行うことによって、またさらに高みのスタートを切ることのできる世代を育てる、これが教育だと思っております。
先生であるとか教育というのはもう少しオープンソース的な側面を持っていいのではないかと思うのですが非常にクローズドな世界を生活しております。
また非常にドメスティックな面というのでしょうか、そういう面もあり先生が何か生徒を抱え込んで自分の思い通りにしようとしているのではないかと思う面も非常によく感じられるのがこの業界です。
ぼくは学校では英語を専門に教えているのですが、何かアイロニックというか矛盾を抱えたというかそういった面が英語の先生には多くて、すごい皮膚感覚ですが個人的には英語の先生というのは非常にドメスティックな面を持っている人が多いと思っております。
また画一的な教育、先生にとってコントローラブルな生徒の育成、こういうことが未だに教育の現場にははびこっているのではないかと思います。
この前近代的なというかクローズドな教育の現場で何か面白い人物を育てるというのはなかなか難しくて何か限界みたいなものを感じることがたまにあります。
でも自分の使命というのはそういったものを全てを覆して落合陽一さんの言葉を借りるとエモーショナルな、エモい人間を育成するということになります。
均質的な教育を行う現場の中で、少しでもこのエモい人間を育成できないか、というのがこの10年ぐらいの大きなテーマだったのではないかというふうに思っているのですが、最近始めた教育上の取り組みが1つのきっかけになるのではないかというふうに思っています。
特別に何か大きなことをやっているというわけではないですが生徒に英語のスピーチを行わせる。
それをTED Talksのようなショーに仕立て上げる。
その中でTED Talksのようにエモーショナルな空間を作る、生徒の可能性、生徒の興味関心を興味関心にとどまらせずに大きな渦の中に巻き込ませたい、こういうような思いがあります。
この取り組みはまだまだ始めて数年なのでただのよくある英語スピーチ大会と変わらない部分は大いにありますが、 取り組みの成熟度が上がってくるともう少し何か拓けるのではないかというふうに思っております。
その中でもポツポツと落合陽一的な人間が育ってくれればまた未踏事業に参加するような理系生徒が育てばいいなというように考えています。
と、色々なことをここまで書きましたが僕のテーマはエモーショナルな人間をどうやって均質を目指す教育空間の中から生み出すか、ということにあるわけです。風穴をあける、というようなことでしょうか。
AIなどの科学技術の発展によって消える職業の中に僕のような高校教員というのが入っています。
それを大手を振って迎えられるようにそこまでの間しっかりとエモーショナルな人間を育てるというのは教育の役割の1つではないでしょうか。
そうなった時に僕自身はワクワクする未来を生活しているでしょうし、高校教員ではない新たなフィールドで僕は働いてワクワクしているのではないかというふうに考えています。